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第35回:弱い医療安全のススメ ー奥村 将年ー

「強い」という言葉に、私たちは本能的に惹きつけられます。
それは、力強いカブトムシに憧れを抱くように、あるいは徒競走で一番を目指すように、中日ドラゴンズが永遠に弱くていいとは思っていないように、私たちの内奥に組み込まれた「強さ渇望の標準装備」とでも呼ぶべきものでしょうか。
医療安全の現場においても、この渇望は「医療安全の言うことは正義」という揺るぎない姿勢や、マニュアルからの逸脱を安易に「悪」と断じる思考、断片的な情報から性急に因果関係を結論づける傾向として顕在化します。
医療安全部門が、あたかも自らの上位性を誇示するかのように振る舞う姿は、一見すると頼もしく映るかもしれません。
しかし、それは「自分が全ての判断と決定を責任もって遂行しなければならない」という幻想、あるいは「自分が支配しなければ安全は担保されない」という強迫観念に囚われているかのようにも見えます。

このような「強い医療安全」は、多くの医療安全管理者にとって、目標とすべき理想像として目に映るかもしれません。
私自身も、かつてはそうでした。
しかし、その道は苦悩に満ちたものです。
強い姿勢は周囲との軋轢を生み、頭ごなしのマニュアル遵守は眉をひそめられる原因となります。
事例検証においては、安易な因果関係に飛びつき、当事者を傷つけてしまうことも少なくありません。
医療や人間の複雑さを知れば知るほど、教科書やエビデンスを現実の事象に当てはめることの困難さに直面し、その「強さ」を維持することの無理を感じるようになるでしょう。

そこで、私が提唱したいのが「弱い医療安全」という概念です。
私が言う「弱い」とは、決して無力であることではありません。
それは、「強さを自分の中に包含しておかなくてもよい」という姿勢、つまり「自分で抱え込んで全部やらなくてもいい」という柔軟性を意味します。
この考え方の根底には、「能力とは関係性のなかで創発されるもの」という思想があります。
能力は個体そのものに備わるものではなく、他者との関係性や環境の中で発揮されるものだという洞察です。
例えば、私たちはイスに座る能力があるから座ると考えがちですが、ギブソンが「アフォーダンス」として定義したように、イス自体が座る可能性を示しているからこそ、私たちは座ることができるのです。
さらに、そのイスが硬い素材で安定しており、高い場所に物がある環境ならば踏み台となり、美術館という環境ならばアートとして鑑賞されるように、私たちの発揮される能力は環境によって創発されます。
お掃除ロボットの例も示唆に富んでいます。
広々とした何もない部屋では効率的に掃除ができないロボットが、適度な距離に壁や障害物があることで、それらを味方につけ、ゴツゴツぶつかりながら方向を変え、部屋全体をきれいにすることができるのです。
この時、障害物は邪魔者ではなく能力を発揮するための「味方」になります。

この視点を医療安全活動に置き換えてみましょう。
自身の能力にこだわり、問題を抱え込むのではなく、自身の能力がのびのびと発揮できる環境や関係性を整えることがよさそうです。
医療安全管理者になった瞬間に完璧であろうとするのは無理な話です。
弱い医療安全と聞くと、病院が危険になるのではないかと心配になるかもしれませんが、むしろ、その反対の可能性を秘めています。
私たちは弱いものに対して手を差し伸べたくなります。
つまり、味方になろうとします。
医療安全においてこれが実践されれば、病院全体が医療安全の「味方」になるのではないでしょうか。
現場の全てのスタッフが自律的に安全を守る病院、その理想的な姿は、私たちがあえて「弱く」なることから始まるのかもしれません。



愛知医科大学病院 医療安全管理室
奥村将年