医療安全よもやま話
2025-07-25
人間に自由意志があるのか?
脳科学との絡みで有名なのがベンジャミン・リベットの実験で、われわれが腕を上げるなどのとある動作をしようとする「意識的な意思決定」以前に脳内で「準備電位」と呼ばれる無意識的な電気信号が立ち上がるのを確認したというものだ。
リベットの実験はしばしば(リベットの意図とは別に)「自由意志とは幻想である」という科学的な根拠とされてきた。
医療安全をやっているとしばしばヒューマンエラーという言葉と遭遇する。
「ヒューマンエラーは原因ではなく結果である」という言葉は、現場ではヒューマンエラーを誘発する多くの背景因子が存在していて、その背景因子がヒューマンエラーを誘発する。
だからエラーを起こした個人を責めても無意味で、そのエラーの背景にある因子を調査し抽出しそれらを改善することによってエラーを防ぐのだ。
このことを医療安全管理者養成研修でわれわれは教わっている。
現在の知見からすれば、このことの是非については大いに議論のあるところで、例えばエリック・ホルナゲルの『Safety-I & Safety-II』という著書では、「望ましくない結果を説明するために「ヒューマンエラー」という表現を使うべきではない」とかなり手厳しく批判している(1)。
私たちの意思決定や行動は確かに周囲の環境の影響を受けているし、また時間的にエラー発生以前の事象の影響を受けている。
事故の責任追及の議論において、安易な刑事責任追及はよくないのではないかという議論は航空など他の業種も含めて長らく続いてきた。
その根拠はそこで問題となるヒューマンエラーは本人の意図というよりはその手前の様々な事象の影響で発生しているからという説明であった。
安全管理者はすべての事象が過去の出来事によって必然的に決定されているという立場を取るだろうか。
これは哲学の議論の中では決定論という立場を取るのかという問いである。
そして決定論者はその論理から自由意志は存在しないと考える。
責任追及を回避する論理の裏にはこの決定論者の考え方は潜んでいる。
非難の文化から学習の文化へという標語のもと、医療安全に従事する人々は事故の責任追及について批判的な立場をとり、どちらかといえば免責を主張することが多い。
その一方でわれわれは自由意志が無いとか、哲学的な決定論の立場をとっているかといえばそうとは言い切れない。
哲学界隈はこの辺の議論を、自由意志両立論(ダニエル・デネット、ジョン・マーティン・フィッシャー他)と自由意志懐疑論(ダーク・ペレブーム、グレッグ・カルーゾー他)の対立としてとらえていて、いまだに活発な議論が行われている。
非難の文化から学習の文化へという考え方はノーブレイムモデルやノーブレイムカルチャーとも呼ばれ、安全推進の観点からは非常に重要である。
一方で免責が安易な免罪符とならないためには、われわれは哲学者や科学者を巻き込んだ自由意志の議論にも関心を持ち、法社会制度に向けて深い見識を持った情報発信を目指さなくてはならないと考えている(2)。
(1) エリック・ホルナゲル著、北村正晴・小松原明哲監訳『Safety-I & Safety-II―安全マネジメントの過去と未来―』海文堂(原著2014、訳2015)、p. 85-86
“事故の説明に「ヒューマンエラー」を用いることによる望ましくない副作用は、「ヒューマンエラー」が事故分析の最も深いレベルの原因あるいは「根本原因」になることである”との記載がある。本邦ではヒューマンエラーは「原因ではなく結果である」という説明で、その背景因子を探ることを推奨しており、ホルナゲルの危惧は回避できているように考える人も多いかと思うが、ヒューマンエラーを引き起こす背景要因を探すという時点で、その他の可能性を発見することを困難にしていることに着目すべきである。
われわれは探したいものを探して発見するのみであり、同書p.184でもWhat-You-Look-For-Is-What-You-Find(WYLFIWYF)という表現でこの危険性を指摘している。
事例の解析には現場の問題に即したいかに多様な視点を残せるかが重要であり、従来型の分析アプローチには大きな限界があることを認識しておく必要がある。
(2) ここでは情報開示や謝罪の問題から、発生した被害損害に対していかにそれを償うのか、さらには被害者の赦しの問題をどう考えるのかという議論が必要であり、従来の法的紛争解決をはるかに超えた問題意識が必要である。
そのためにも責任を問題をいかに考えるかという観点から自由意志の哲学的な議論は重要なのである。
泉大津急性期メディカルセンター
クオリティ管理センター長 長谷川剛